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満月の夜に
1.
それは知られざる物語。
気付かず過ぎ去っていく日常の中の、僅かな非日常。
出会いは偶然か、それとも必然か。
月の輝く夜、少年は不思議な体験をする──
刻はそろそろ日付も変わろうかという真夜中。
薄暗い実験棟の一室で、少年は満月の明りを頼りに手元のビーカーを見詰めていた。
ビーカーの中には底辺数センチ程、淡い青の光を放つ液体が揺れている。
手元のメモ帳と液体を何度も見比べながら、時折傍に置かれた粉や液体をビーカーの中身と混ぜ合わせていく。その少年の目は真剣で、ガラス棒を掻き回す手には緊張が窺える。
頭部からひょっこり生えた大きな白い耳だけは、周囲の音を気にするように時折ぴくりと揺れていて、少年の実験が申請されたものではないのだろうと知れた。
──はぁ。
暫くの間、無言で実験に取り組んでいた少年の口から、初めて溜息が零れた。
ビーカーの中の液体は先程より更に減り、粘性を増してきていた。
少年の手に握られているのはひとつまみの白い粉。
「これを足して、ちゃんと反応が起これば幻薬完成──だな」
上手くいってくれよと祈りながらビーカーの中にそれを振り入れる。
じっとビーカーを見守る少年は、時間外の実験に対する警戒心も忘れてただ反応を待っている。
そのせいだろう。近寄る足音を聞き逃したのは。
「何時だと思っとるんだ! バッカモーン!」
「!!!???」
突然背後から掛けられた声に、驚いて耳がぴんと立ったのと、ビーカーから煙が吹き出て小さな爆発音が響いたのはほぼ同時だった。
「え、きゃっ」
「な、なんだ!? 失敗か…って、「きゃっ」…?」
もくもくと立ち上がる白い煙にむせながら、聞こえた声に驚いて振り返った。
そこにしゃがみ込んで、両手で頭上の白く長い耳を押さえていたのは同じ学生服を着た──
「お、女の子…」
「あーもう、脅かさないでよ! びっくりしちゃったじゃない」
恐る恐る目を開けた少女は、煙が晴れて何事も起こっていない事を確認すると、ほっとしたように立ち上がり、少年を睨みつけてきた。
「脅かさないでって、そりゃこっちの台詞だろーが。先に教師のふりしてビビらせたのアンタだっつの」
「時間外にこっそり実験なんてしてるから悪いんでしょー。電気もつけずにこそこそしてたら、時間外申請してませんって言ってるよーなもんじゃない。人に言えないよーなことしてたから驚いたんでしょ。アタシの所為にしないでよね」
悪びれずにフンと顔を逸らす少女に、怒るより先に呆気に取られる。
「アンタ…なんつーか…や、もーいいや。チクる気ないんだったらさっさとどっか行ってくれ」
手に握ったままだったビーカーの中身を思い出し、少年はそっと目線の高さまでそれを持ち上げる。
中には丸く固まった、透き通る青色の幻薬が一つ。
どうやら実験は成功したらしい。
安堵の息を洩らす少年を見遣り、少女も近づくとそれを覗き込んだ。
「へー、綺麗な青ね。何の薬?」
「アンタには関係ないだろ」
「いーじゃない。チクられたくないんでしょ。だったら何作ってたのか位教えなさいよ」
「……性格悪いって言われないか?」
「今始めて言われたわねー」
「………」
にっこり微笑み引く気のない少女に、少年は盛大な溜息を吐いた。
2.
「本音を聞くクスリ~~?」
「んだよ、悪いかよ」
実験器具を片付け、少年と少女は巡回の警備員に見つからないよう並んで床に落ち着いた。
少女の問い掛けに答えた少年の口から出た幻薬の内容に、少女の目が丸くなる。
「悪いとは言ってないけど、隠れて作ってるからもっとアヤシイものかと思ってた」
「何想像してたんだよ」
「やぁね。女の子の口から言わせないでよ」
「…アホか」
足を机の間に投げ出して、少年は手に持ったままの幻薬を月に翳す。
満月の光を受けて、それは青くきらきらと輝いた。
眉根を寄せて、どこか不機嫌な表情を崩さない少年に、少女は表情を緩める。
「…もしかして、誰か大切な人と、喧嘩でもしたの?」
「……関係ないだろ」
「あるわよー。アタシにもそういう経験くらいあるもの。むしろ、女子の喧嘩のほうが男子よりよっぽど多いし、想像つかないくらいドロドロしてるわよー。何度笑顔の裏で思ってること暴いてやりたいと思った事か…」
「目が笑ってねーよ、こえーよ!」
何かを思い出してふふふと声を洩らす少女に恐ろしいものを感じ、一歩引きつつツっ込む。
「あら、失礼。で、どーなの。オネーサンが聞いてあげるわよー」
「あのな……って、ああもう、マトモに相手してる俺が馬鹿馬鹿しくなってきた…ッ」
「どーゆー意味よ」
「そーゆー意味だろ」
じとりと互いに見詰めあい、ややもして互いにぷっと吹き出す。
大声を出さないよう、声を潜めて笑い合えば、少年の心の痞えも少し軽くなる気がした。
「…べつに、大したことじゃなくてさ。進路のことで、ちょっと親と衝突しただけなんだよ。あのクソ親父、いつだって建前めいた事しか言わないからカっとなっちまって…」
「あー、それで本当はどう思ってるのか、聞きだそうとしたってコト」
「…まーな。でも案外建前じゃなくて、本音そのものだったりしてな。したら、薬なんて作った意味ないんだけど、な」
諦めたような微笑を浮かべる少年。
その後頭部を軽く叩いて少女が笑う。
「何言ってんのよ。本音じゃないと思ったからこそ、本音が聞きたかったんでしょ。キミがどんな風にお父さんと暮らしてきたのかは知らないけど。でも、この世界で誰よりもお父さんを知っているうちの一人のはずでしょ、キミは。そのキミが本音じゃないと思ったのなら、それは多分正しいのよ。それを知るために薬に頼るのはどーかと思うけど」
「……」
「ま、薬に頼ってでも本音を聞きたいって気持ちは、判らないでもないけど。アタシもさー、好きな人がいるんだけどね。…多分、相手も好いてくれてるとは思うんだけど。どーしても言ってくれないのよね。その一言を。ホント、真面目で頑固でどーしようもないヤツだと思わない?」
「アンタなら、その口撃で相手の口を割らせそうだけどな」
「それが出来りゃ、苦労しないわよー。だから頑固だっての。キミのお父さんだってようはそーゆーコトでしょ」
「確かに。頑固親父だな」
「真面目で頑固な人好きだと苦労するわよねー」
「好きとかは置いといて、同感だ」
二人揃って吐いた溜息に、空気がふわりと揺れた。
3.
少女の恋の話。
少年の夢の話。
ぽつりぽつりと交わされる月夜の会話。
初めて出会ったはずの二人だったが、会話が途切れる事はなく、穏やかな空気が辺りを包む。
教室の窓から見えるのは、鮮やかな満月。
しかしそれも徐々に高度を下げつつあるようだった。
「随分夜更かししちゃったわねー。夜更かしは美容の大敵だってのに」
少女が大きく伸びをして立ち上がる。
釣られて少年も立ち上がり、壁の時計へと目をやった。
「もう三時過ぎてるな…そろそろ戻って寝ないと講義に響く」
「キミ、結構真面目ねー。サボろうとか授業中寝ようとか思わないの?」
「真面目じゃないから今ルール違反してんだろ」
「なぁる。それもそーね」
くすくすと笑って、少女がスカートの埃を払う。
「そういやさ。そういうアンタは一体何の用で出歩いてたんだよ」
「んー? ヒミツ」
「はぁ? なんだそりゃ」
「ヒミツは乙女の専売特許なのよ。男はそう言われたら素直に引き下がればいーの!」
「………ハアソーデスカ」
「棒読み!?」
「キノセイダロ」
軽口を叩き合って、笑いあって。
「それで覚悟は決まったのかしら?」
「覚悟、なぁ…。そんなもん決まんねーけど、まぁもう一回くらいしっかり喧嘩してもいいとは思ってる。確かにアンタの言うとおり、薬で人の心覗くなんて、マナー違反もいいとこだしな」
「そっか。ふふ、おーえんしててあげるから、やってみなさい!」
「ああ。…そうだ」
少年は手の平で転がしていた青い幻薬を少女に差し出した。
「これ、やるよ」
「ほぇ?」
「持ってたら、覚悟つかないまんまになりそーだし。アンタなら、悪いことには使わないだろうからさ。ま、口止め料と、お礼代わりってコトで」
「……りょーかい。じゃあコレはキミが無事決着をつけるまで預かるってことにしとくわ」
差し出された幻薬を取り出したハンカチに包み、少女は一つ頷いた。
「それじゃ、アタシももう行くね。今日は楽しかったわ。アリガト!」
「あ、ちょっと待った!」
手を振り教室を出ようとする少女の名前すら知らないことに気付き、少年は慌てて口を開く。
「アンタ、名前は?」
「名前?」
「名前位知らなきゃ、結果報告も出来ないだろ。…俺は、コクヨウ。治癒幻惑魔法科だ」
名乗った少年──コクヨウに向けて、少女は笑顔を見せ。
「アタシはレンリ。戦闘魔法科のレンリよ!」
手を振って軽やかに駆けて行った。
その後姿を見送って、コクヨウはふと気づく。
「レンリ…レンリって、うちの亡くなったお袋と同じ名前かよ…」
奇妙な偶然に、コクヨウは小さく微笑んだ。
4.
後日。
無事に父親と話し合いを済ませたコクヨウは、結果をレンリに知らせるべく学生課へと出向いた。
しかし、調べた学生名簿の中にレンリという戦闘魔法科のセリアンの少女は見当たらず。
記録を遡り、漸く該当する顔写真と名前を見つけたのは、実に20年以上も前の学生名簿。
「どーゆーコトだよ…?」
コクヨウは唖然としたまま、写真を凝視した。
そこに写っているのは、色褪せてはいるものの、確かにあの満月の晩に出会い、共に過ごした少女で。
話に行った時に父親から聞いたことが、ふっと思い返された。
『お前のそういうところは母さん似だな。決めたら譲らんところなんかそっくりだ。…やれやれ。お前が母さんと同じ学科を選ばんで良かったと思うべきか。怒る度に攻撃魔法を繰り出されてはたまらんからな』
苦笑して、コクヨウの希望を認めてくれた父が言っていた台詞。
戦闘魔法科だと言った、母と同じ名前、同じ白い兎耳を持つ少女。
好きな人が頑固で真面目で困ると言っていた。
では、あれは、本当に。
「背中を、押してくれた…?」
不甲斐ない息子に、母が喝を入れにきたとでもいうのか。
莫迦な、と思いつつも、コクヨウはあの満月の晩の出来事が幻だったとは思わない。
作った筈の幻薬も手元になく、証明するものなど何もないけれど。
それでも、きっと。
認めるように頷いて、コクヨウは静かに名簿を閉じ学生課を後にした。
『さぁ、今日もはりきって行くわよッ!』
元気な少女の声が聞こえた気がして、コクヨウは口元を緩ませた。
それは知られざる物語。
気付かず過ぎ去っていく日常の中の、僅かな非日常。
出会いは偶然であり、必然を語る。
月の輝く夜、少年は不思議な体験をした──
end