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「...ただいま」
「お帰りなさい友雅殿...って、どうしたんですかその姿は!」
外も暗くなるのが早い冬の夕方。
しとしとと雪混じりの雨が降る中を、同居人が帰ってきました。
なぜか、びしょ濡れで。
「とりあえずそこから動かないで下さい、今すぐタオルを持ってきますから簡単に拭いたらそのまま脱いでしまっていいですから──」
「おや、大胆だね鷹通。このままこの場で君が温めてくれるのかい?」
「馬鹿を仰らないで下さい。脱げるものだけ脱いだら、そのまま風呂場へどうぞ。お湯は沸いていますから」
傘を持っていった筈なのに、傘を持たずに帰ってきた「水も滴るイイ男」を体現したような彼は、相変わらず馬鹿を言うので、持って来たタオルを顔に押し付けてごしごし拭いてやったら痛い痛いと言いながらも嬉しそうに笑ったから。
それ以上、聞けませんでした。
なんでそんなに寂しそうな目をしているのかなんて。
その日はそのままほこほこに温まった彼を、冷やさないうちにご飯を食べさせて布団に押し込む事に成功したものの、一緒に布団に連れ込まれてしっかりこちらまで温められて──というか、暑くなりすぎたのは些か不本意ではあったけれど。
翌朝目を覚ました彼は、全くのいつも通りだったので、私は多分安心していた訳で。
「それじゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい、気をつけて」
既に休みに入っている大学生の私と違って、彼の仕事納めは本日。
スーツを着て颯爽と出て行く彼を見送って、年末の大掃除に着手した。
...それが、今から十時間以上前の話です。
「...今日は遅いな...」
仕事納めだから遅れている可能性はあるけれど、それなら必ず電話を掛けて遅くなると教えてくれる律儀な彼だ。
それが一つの連絡もなく、もう帰ってきても良い時間に帰ってくる気配もない。
とうに掃除は終わって、夕ご飯の支度も済んだ。
それでもやっぱり彼は帰ってこない。
外は昨日と同じ、雪混じりの雨。
「あ、今日は傘、持っていってないじゃないか...!」
朝は晴れていたから、うっかり持たせるのを忘れていた。
もしかしたら途中で雨宿りしたまま動けなくなっているのだろうか。
携帯を持ちたがらない人だから、居場所だって判らない。
逡巡は束の間だった。
友雅殿が買ってくれたコートに袖を通して、しっかりとマフラーを首に巻く。
もしも昨日持って行った傘を会社に置き忘れただけなら、今日はちゃんとさして帰ってくるかもしれないけれど、二日連続で彼を凍えさせたくはなかった。
玄関で防水ブーツを履いて、大きめの傘を手に扉の外へ。
ロビーを抜けて一歩マンションから外に出れば、びゅうびゅうと吹く北風に合わせて容赦なく雨だか雪だか判らないものが襲い掛かってくるので、対抗すべく傘を向ける。
残念ながら足元は防げないので少しずつじわじわと濡れて冷えていくジーンズに、彼が凍えてないかと不安になる夜です。
「擦れ違いにならないといいんですが...」
駅から住まいのマンションまでのルートは何通りかあるが、一番近いルートを選んで足早に駅へと向かう。
視界が悪いので、特徴的なあの濃い緑髪を見落とさないようにと視界にだけは十分に気をつけながら。
だがその心配はあっという間に杞憂に終わった。
マンションから少し行ったところ、駅前の開発中の空き地の前。
これから工事が始まるのだろうその場所に詰まれた鉄骨やドラム缶、ブルーシート等の雑多な物の合間に紛れるように立ち尽くしているのは、私の良く知る水も滴るイイ男だ。
今日もやっぱりびしょ濡れになっているその姿に、一番の問題が杞憂に終わらなかったじゃないかと眉を顰めて駆け寄った。
「友雅殿!」
「......ああ、鷹通か」
呼べば、ゆるゆると振り返ったその唇は既に色を失くしていて。
一体どれだけここにいたのかと慌てて傘を差し出して、念のためにと持ってきていたタオルを頭に被せてその手にはホッカイロを握らせる。
こっちの世界には便利なものが多くて本当に助かる。
ホッカイロを握らせる為に触った手の冷たさにぞっとしながら、そこでようやく彼の足元に傘が落ちていることに気がついた。
「どうして傘を...」
ちゃんとさしてないんですか、と言い掛けて、その傘の下に隠れるようにして存在していたダンボールにも気がついた。
その、中身にも。
固まった私の視線に、友雅殿は濡れたままの顔で困ったように微笑んだ。
「急に冷え込んだ上に、この雪と雨だからね。保たなかったのだろう」
「...いつから...」
「さあ? 私が気付いたのは昨日だったけれど、恐らくそれより前から居たのではないかな。昨日はまだ、動いていたのだけれどね」
新しく敷かれていたのは、友雅殿の愛用していたマフラー。
そういえば、昨日はマフラーをして帰って来なかったかもしれない。
水分を吸ってへろへろになっているダンボールの隅には、まだ新しそうな牛乳らしきものが小さなプラスチックの器に入っていたが、多分、減ってはいない。
きっと、それだけの体力ももう尽きていたのだ。
少しでも暖を取ろうとしたのだろうか、汚れきった灰色の小さな毛玉が二つ、しっかりとくっついたまま友雅殿のマフラーにくるまって動かなくなっていた。
「もしも、今日、まだいたら...怒られるのを承知で連れて帰ろうかとも思っていたのだよ」
「ああ...」
何で昨日連れて帰って来なかったのだ、とは間違っても言えない。
私達が住んでいるマンションはペット禁止だし、今でこそ大学が休みだが、冬休みが明ければ私も大学へ行かなければならないし、友雅殿はそもそも日中仕事でいない。
その状態で、こんな小さな、生まれたての命の面倒をつきっきりで見る事などできない。この命に対して、責任を持てない。
それでも見過ごせなくて、友雅殿は。
「...君が泣くと思ったから、気付かれたくはなかったんだがねえ...」
どうしてそこで、笑うんだ。
本当に泣きたいのは、貴方だろうに。
君は優しいから、なんて言って冷え切った手で私の頭を撫でる、貴方こそが優しいのに。
「...っく...、なたが...」
間に合わなかった事を責めているだろう貴方が。
昨日、手を差し伸べていればと思っているだろう貴方が。
偶然見つけた小さな命の終わりを悲しんで動けなくなっている貴方が。
それを悟らせない素振りで、これもまたこの子達の運命だったのだから仕方ないのだよなんて嘯いてみせる貴方が。
悲しくて。
愛しくて。
「ああ、よしよし、泣かないでおくれ鷹通」
「それはっ、」
貴方が泣かないから。
いや、その頬を伝う雨の雫は、もしかしたら貴方の涙なのかもしれないけれど。
なんだか悔しくなって、何が悔しいのかも判らないまま、噛み付くように冷えた唇に口づけた。
「...っ」
「......」
一つの傘の下で、そのまま、いつしか互いの唇の温度が同じになるまでくっついて。
やがてそっと頬に触れた手の先が、ちょっとだけ温かくなった事にほんの少しだけ安心する。
「...ふふ、いくら夜道、傘の中とはいえ、鷹通から外で仕掛けてくれるなんて、随分と大胆になったね?」
「貴方がそうやってすぐに...! はぁ、いえ、いいです。友雅殿、少し傘を持っていて頂けますか」
此処で言い合いをしている時間も惜しい。
また凍える前に、友雅殿とこの子達を温かい場所に運んであげなければ。
傘を渡せば何も言わずに受け取ってくれたので、そのまましゃがみ込んで彼のマフラーごと冷え切った小さな身体をそっと包んで持ち上げた。
「明日、いい場所を探して埋めてやりましょう。せめて次は良い生に恵まれるように」
「...やっぱり君は優しいね、鷹通」
「友雅殿ほどではありませんよ。それに、この子達もきっと、最後に温かい思いに触れる事が出来て...辛いばかりではなかったと思います。いいえ、そう思いましょう」
「...ああ、そうだね」
だって、もし私が死ぬ前に友雅殿の優しさを独り占めできたなら、きっとそれだけで満足して逝ける。
彼の思考全て私への想いで奪えるのなら、こんなに幸せな事はない。
...それはとても薄暗い思いでもあるので、口になんて出せませんが。
そう思って苦笑した私の耳に、雨に混じって友雅殿の呟きが届いた。
「きっと、その子達も鷹通が祈ってくれれば幸せに眠れるのだろうね」
すこし、うらやましいね。と。
そう聞こえたのは気のせいだろうか。
振り向いた私の目には、もういつも通りの彼が、いつも通りの読めない笑みを緩く浮かべていて。
「私にくっついたせいで、鷹通も濡れて冷えてきただろう。さあ、風邪を引かないうちに帰ろう」
そう言って、すっかり水気を吸ったタオルを頭から外してコートのポケットへと仕舞いこむと、傘を持っていないほうの手を差し出した。
「なんですか、この手は」
「迷子にならないように、あとは、凍えないように、かな」
そんな事を言って笑うから。
そしたらもう、しょうがないじゃないか。
この人が、迷って立ち止まらないように。
帰ってこられなくならないように。
一人で凍えないように。
私は片手でマフラーとその中身を抱えなおして、もう片手をしっかりと友雅殿の指に絡めて握り締めた。
「しょうがないですね。二人なら迷わないでしょう」
「あるいは、迷っても君が一緒なら、それもいいかもしれないね」
迷い歩いた分だけ、人生は深く、面白くなるものだろう?
しゃあしゃあと言う口に、一生勝てないのか、あるいは彼と同じ歳になった時に、自分もそんな風に思う時が来るのかは判りませんが。
その時も、隣に彼がいるのならばそれで十分だと。
口にしない思いの分だけ、強く彼の手を握って一緒に帰る、夜の道です。
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誕生日なのに全くめでたくない話でサーセンwwwwwwwwww
思いついたのがコレとか...うん、お約束って面白いからお約束なんですよね。
まあ私が書くと面白くないっていう話もなきにしもあらずですが^q^